クリエイター、沖野良吉:自己紹介

Profiles of Ryokichi Okino (Mr. Hiroshi Nakatani) in English is available at Google Blogger site

沖野良吉 (本名:なかたにひろし)約30年ぶりに日本帰国。

30年ほど海外に暮らした。いわゆる帰国オジサンだ。それにしても何故、「帰国子女」なんだ!子供と女しか帰国してはいけないのか!帰国後、気がついたのだが、私の知ってるタレントや歌手は、摩訶不思議にも、皆、爺さん、婆さんになっていた。ピチピチギャルだったタレントは、堂々たる、おばさんに変身していた。これが、いわゆる玉手箱効果なのか!浦島太郎さんと今度お会いしたら、ゆっくり夜を明かしてお話がしたい。玉手箱を開けてからの彼の人生について、じっくり聞かせてほしい。彼は、その後、どうしたのだろう。乙姫様の写真など部屋に張って、竜宮城ソングなどを、古びれたラジカセなんかで聴きながら、ただ、後悔と思い出に生きたのだろうか?それとも?

Okino Ryokichi on People Magazine

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なかたにひろし(芸名:沖野良吉)とは?

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きっかけは、アリゾナ時代

アリゾナ州立大学、音楽部にて

アリゾナ州立大学、音楽学部にて

アリゾナ州立大学音楽学部での写真。1980年。音楽学部内には、学生が自由に使える、プロ仕様の音楽制作室があり、当時の最新シンセサイザーやマスターリング機器が揃っていた。あの頃、私は、英語は、そう話せなかったのだが、「音楽」が音楽学部のアメリカ人学生達と交流するきっかけとなり、おもしろ、おかしい学生生活の日々だった。そのおもしろ、おかしい日々が、その後の自分の人生を決めてしまうとは、あの頃は、思いもしなかった。

1980年頃、メキシコ、グアテマラ放浪時代

ニューオリンズにいた頃、メキシコ、グアテマラから来た人達と、とても仲良くなった。それで、彼らが、母国に帰る、というので、「じゃー、一緒に行く」と、着の身着のまま、ついて行ってしまった。まったくの想定外の事なので、旅費も乏しく、飛行機代までは、だせたものの、滞在費、現地移動費、食費、すべて、予算ゼロだった。が、まったく問題なくメキシコ奥地、グアテマラを駆け回った。

1980年頃、ニューオリンズのライブハウスに通った頃

1980年頃、ニューオリンズのライブハウスに通った頃

 

1980年頃、メキシコ、グアテマラ放浪時代1

1980年頃、メキシコ、グアテマラ放浪時代。この遺跡はどこか、積に似ている。

 

1980年頃、メキシコ、グアテマラ放浪時代。ホテルには一切泊まらず、ご家庭で長期間尾k世話になった。

1980年頃、メキシコ、グアテマラ放浪時代。ホテルには一切泊まらず、ご家庭で長期間尾k世話になった。

 

1980年頃、メキシコ、グアテマラ放浪時代。当時、日本人が訪れた事のない所にも行った。

1980年頃、メキシコ、グアテマラ放浪時代。当時、日本人が訪れた事のない所にも行った。

社会人生活は、香港とアメリカで

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香港にも長く住んだ。今も広東料理は好きだ。写真は1991年起業間もない頃だ。しかし、中国人社会で会社を起こし、家族を持ち、サバイバルするのは死ぬ思いだった。しかし、そのビジネスも、スパッと捨て、若き日に憧れたアメリカに家族を連れ、ほぼ無一文で再渡米して起業したのが、男の厄年の時だった。しかし、天は我に見方してくれたのか、その後、10年、南カリフォルニアに住み、子供達も大学を出た。

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私にとって、日本とは、遠くにあって、懐かしむものであり、日本とは、「訪問する」ところであり、帰るべき社会や戻るべきホームは、常に日本ではなかった。日本に帰国してから4年。今も私は「日本に来た」と言いかけて、慌てて、「日本に帰ってきた」と言い直す。多分の心の中では、まだ「日本に臨時訪問中」なのかもしれない。

沖野良吉

Okino Ryokichi Multi- Creator of Japan

Okino Ryokichi Multi- Creator of Japan

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人生ヒストリーの要約:

  • 1959年生まれ
  • 日本(神戸市)で一般的、日本人の教育を受けた後、
  • アメリカに留学し、大学院にて、MBA(経営管理修士号)を得た。
  • 2年後、帰国、日本(神戸)の商社に就職。
  • 1年後、香港支店転勤、3年後退社
  • 香港にて第一回めの、ゼロから起業。後、約10年香港にて会社経営。
  • 1999年、再渡米。
  • アメリカ、カリフォルニア州にて、再びゼロから起業、約10年会社経営。
  • 2009年に、約30年ぶりに日本帰国。
  • 現在、神戸市在住、これからの生き方模索中

私の生業は、CREATOR(クリエイター)

ひと言で表現すれば、私の生業は、CREATOR(クリエイター)です。
会社を作り、デザインを作り、ソフトウェアを作り、作曲、作詞、編曲をして、
数式を解き、小説を書き、子供まで作りました。
創造に必要なテクニックや知識は、その時々、学んできました。

創造。
なんて素晴らしいことでしょう。
自分が、考えたばかりに、何もなかった所に、それが現れる。
あたかも、神の真似をしているようです。子供の頃、プラモデルが好きでした。全く形もなしていないパーツを上手に組み立てると、それは、あたかも本物のような形となり、時には本物のように動いたのが、とても不思議で嬉しかったのを覚えています。

お金をいただいて、プロとしてしてきた事

を、幾つか書けば、

  • 会社経営、最大年商USD300万ドル
  • 貿易、約20年、香港(中国工場)とアメリカ、アメリカと日本、香港と日本間など、全業務に精通、
  • 商品は、衣服、手工芸品、スポーツ用具など
  • バレンチノ・ガラバーニ、イブサンローラン等、衣服のデザイン
  • ソフトウェアの制作、販売
  • WEB制作、約20年(日本語サイト、英語サイト、小売サイト)の構想から構築
  • WEBプログラミング(HTML,PHP等)、文章、グラフィック、音楽等のコンテンツ制作
  • PCハードウェアの修理、販売
  • ビデオ編集、制作
  • 音楽制作、編曲
  • 特許技術文の翻訳
  • 特許の国際PCT調査

50歳を過ぎた今も、日々、いろいろな分野の事を学んでいます。
何かしたいから、その実現の為に、勉強すれば、知識は真綿に水を含むごとく染み入り、同時に多くの疑問も出る、その疑問を解決するうちにさらに深く広い、実現への理解が得られます。

よく言われます。
「まあ、そんなにいろいろなことができるね」
実は私にとって、すべて同じなのです。アウトプットが違うだけで、同じ事をしているように感じるのです。
作曲をする時も、ソフトウェアのプログラミングをする時も、どうも同じ部分の脳が、動いているように思えます。

けれど、専門分野に打ち込み、突出した実績を残すのが、成功という世の中です。

特に、日本では、そういう考えが強いようです。
「少々、いろいろできても何の意味もないのではないか」
そう私も、落ち込むことがあります。

レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)先生

そんな時、しばしば、レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)先生に、想いを馳せます。
モナリザに代表される画家、と思われがちですが、
絵画、彫刻、建築、音楽、科学、数学、工学、地学、地誌学、植物学、解剖学、土木工学、光学、流体力学他
の分野でも、素晴らしい発想を残しています。

人の思索や創造には、もともと、分野などなく、そのまま、素直に思索し、創造したのが、
レオナルド・ダ・ヴィンチ だったのではないか、と感じるのです。
「分野を決めて考えるとは、なんと窮屈なこと!」とレオナルドは、笑っているでしょう。
一度、ゆっくり、お話がしたい方です。

使用可能言語:

日本語(ネイティブ+): 文章に精通し、言語としての日本語は、日本語教師の資格あり
英語(ネイティブ): 香港、アメリカ、と学校、ビジネス、生活、とすべて英語のみの生活を30年。
広東語:カタコト程度
TOEIC 935点(2014)

自己紹介:

神戸市内公立小学校、中学校、高等学校、大学、と一般的、日本人の教育を受けた。
アメリカに留学し、アリゾナ州大学、カリフォルニア大学(UCSB)等、アメリカ各地の大学で英語教育を受けた後、カリフォルニア州 バークレーにあるビジネスの名門、アームストロング大学の大学院にて、MBA(経営管理修士号)を得て卒業。
後、アメリカで2年ほど働いた後、帰国、日本(神戸)の商社勤務。1年後、香港支店転勤、3年後退社、香港にてゼロから起業。後 、約10年、貿易、デザイン、プログラミング等の仕事を自社で行い、1999年、再渡米。カリフォルニア州オレンジ郡にて、再びゼロ
から起業。貿易、デザイン、プログラミング等の仕事をこなし、約10年滞在、二人の子供達が、カリフォルニア州の大学を卒業したのを、機に、家族で約30年ぶりの日本帰国、4年め。
帰国後した事は、外国人に日本語を教える学校に通い修了した事(教える資格あり)、神戸市の起業家支援プログラムに、全く異分野の音楽制作ビジネスで応募、合格。日本語、英語のWEBサイトの構築、技術資料の英訳等の仕事もアルバイト的にこなしている。
現在、神戸市在住。

 

英語と数学大嫌いな子供だった日本時代

大学まで、日本にいました。
高校の頃、英語と数学が苦手で、大嫌いでした。もちろん、英語関連の科目、数学関連の科目は、通知簿というものの5段階評価の「2」でした。

先生達も、私も、英語と数学は諦めていました。
しかし、アメリカでの教育を受け、アメリカの大学院に入った頃には、
英語は、そう不自由はなく、数学というものは、これほど面白い学問ないと、大好きになっていました。
実際、大学院生だったので、教授のアシスタントとして、
当時数学の一部だったコンピュータープログラミングを学部4年生達に教えていました。

何故、留学したのか?

高校卒業後、なんとか滑りこんだ私学の大学では、要領だけを決め込んで、バイトの日々ながら、3年生までで大方の単位を修得。今となってはよく覚えていないけれど、卒業までのバケーションと考えたのか、バイトで貯めた金で大学4年生の時、1年ほど、アメリカ初留学。ちなみに生まれて初めて乗った飛行機がアメリカ行きでした。そこで、英語落第生が、世界から集まった若者達とアメリカの大学で、英語を学び始めました。

ふとアメリカで気付いた真実 1 「英語って、単に言葉だ」

その時、ふと、気付きました。
「英語って、単に、言葉だったんだ!」
当たり前ですが、それが、分かっていないが為に、随分、無駄な努力や苦しみを味わったことを強く認識しました。英語は、単に、読み書き、聴き話す為のコミュニケーションの道具であり、英語という言語を研究する「英語学」ではなく、また、日本で勉強してきた「英語」というものは、ENGLISH とは、全くの別の学問なんだ、という事です。「英語は、世界中の人達と、近所の友達と接する時のようにさせてくれる便利な道具なんだ」という事です。

ふとアメリカで気付いた真実 2 「基本的に全く同じ」

そして、世界各国から来ていた学生達と日々、話し、食べ、宴会をし、議論などしているうちに、
もうひとつ、常識のウソが分かりました。
「自民族以外は、皆、外人でありすべて違う人々」的な概念は、全く間違っている、ということです。それは、当時、一緒に学んでいた世界からの留学生達も、気付いていき、皆、一様に驚いていました。日本国内でも、各家庭によって、独特の習慣やら常識があると思います。家庭によっては、父親を「パパ」とよび、他の家庭では、「お父様」と呼ぶ、けれど、基本的に同じ日本人です。あの時気付いたのは 、世界でも、各民族によって、独特の言葉やら習慣、常識がある、けれど、基本的に全く同じ人間だ、ということです。腹がへれば食 を求め、一緒にいれば、仲間意識も出てきます。その事に気付いた事が、その後の私の行き方を決めるキーポイントになっていたのか もしれません。

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